語りかたを変えることについて
未だに濱口竜介の話を続けている
映画『急に具合が悪くなる』を見てから、“語りかた”について考え続けてしまっている。

原作の『急に具合が悪くなる』は女性二人による往復書簡であり、そのことが重要であると思う。

一定の年齢に達した(少女ということでもない)成熟した大人の女性二人が往復書簡という形式で、直面する死について語りあう。話される内容以前に、この作品の体裁そのものが非常に珍しいことなのではないかと推測する。たぶんだけども。男性と女性でもなく、男性と男性でもなく、女性と女性が話している、ということ。
また本文でも、いわゆる女性的なコミュニケーションをしているように(少なくともぼくには・・・)見える。もちろんここでいう”女性的”は”いわゆる”であるという但し書き付きですが。相手の痛みに共感的で、相手の傷つきに繊細に応答して、答えをすぐに出そうとはしない。
これが男と男の往復書簡であれば、宗教とか過去の偉人の知見とかの教養を偉そうに語ったりして、相手を傷つけることをわかりつつも厳しい質問をしたりして、この死に向き合うことで未来に繋がる”答え”を出そうとする、なーんてことしてそう。サイアク〜。
そうではないからこそ、この本は良いのであって、映画はそういうところがやっぱり好きでないと思われる。“答え”を出したそうに見えるし、“世界”や”未来”を変えたそうに見える。
少し前にヴァージニア・ウルフを読んだよ
ヴァージニア・ウルフといえばフェミニズムの文脈でたびたび言及されるイギリスの女性作家であり、『自分ひとりの部屋』というエッセイが非常に有名である。イギリスの有名な女性作家たちの歴史を追い、それらの事実から女性には自分ひとりの部屋と生活に十分なお金が必要だ、ということを述べた。

『自分ひとりの部屋』を読む前に、小説である『灯台へ』を読んだ。小説家なのだからそっちから読むべきかなって思ったので。そして大変に面白いと思った。

鴻巣さんの解説が非常にわかりやすかったので、そちらを読んでください。確かにウルフは小説の新しい文体を作っているのだと感じたし、それはきっと”彼女らしい言葉”を作ろうとしているのだと感じられた。それが真に”女性らしい”なのかはぼくには判断しかねるけれども、少なくともそう感じた人たちは多くいたはずだ。
『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』を読んでいる
『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』を読んでいるが、とても面白い。清少納言大好きアラフォーフィンランド人が、ずっと清少納言(「セイ」)に語りかけ、『枕草子』を引用しながら進む紀行文。

セイ、あなたと私は驚くほど似ている――。
遠い平安朝に生きた憧れの女性「セイ」を追いかけて、 ヘルシンキから京都、ロンドン、プーケットを旅する長編エッセイ。
仕事にも人生にもうんざりしたアラフォーシングルのフィンランド人「私」は、 長期休暇制度を使って日本へ旅立つ。目的は「清少納言を研究する」ため――。
読者は著者の旅とともに、自然に清少納言、ひいては平安時代のこと、文学のこと、海外のこと、京都のこと、etcについて知ることができる。東浩紀『平和と愚かさ』で紀行文として哲学の話をすることにもちょっと似ていると思う。
以前『枕草子』の解説本みたいなのを読んでた時にも思ったのだが、清少納言や紫式部には”自分ひとりの部屋”があるじゃないか、と感じる。するとばっちりヴァージニア・ウルフへの言及が出てくる。ヴァージニア・ウルフが『源氏物語』や紫式部をあんなにも褒め称えながら、なぜ女性の自由な言論を体現しているような『枕草子』や清少納言に言及しなかったのか、という問いが立てられ、大英図書館まで行って調べる。この「わざわざ大英図書館に行って調べる」っていうところがまた良いのだが(むしろ著者の作為さえ感じなくもないが)、それはさておき。
彼女はヴァージニア・ウルフに共感したりしながら、“世界で言及されている清少納言”よりも”自分の中の清少納言”に向き合う方向へと進んでいく。実存的というか、普通に言えばオタク的な方向性。しかしそれがどう考えても清少納言的なのだから良い。推しを褒め称え、美しいものを愛で、キモいと思うものにキモいと言い放つ。
読んでいると、実のところは著者は別に清少納言と重なるような人間でもない気もする。しかし清少納言をより詳しく知り、清少納言と自分を重ね合わせていくことで。清少納言のような語りかたをすることで。自由を見出していくように見える(ように書かれている)。
仕事における”語りかた”
ぼくは仕事では、できるだけ硬い語りかたをしたくない、と思っている。
ここでいう”硬い語りかた”というのは、決まりきった形式的な語りかたのこと。こういう風に語ればとりあえず大丈夫、皆が普通だって認めてくれるような語りかた。
硬い語りかたからは、硬い語りかたでできるようなものしかできない。硬い語りかたでは途端に幅が狭くなる。ベタで普通な語りかたからは、ベタで普通なものしかできない。もちろん役所みたいにベタで普通で順当なものを作るべきなら、むしろそれでよい。
あるチームにはあるチームの見合った語りかたがあると思う。感覚的には、プロジェクト体制図を見れば成功するかしないかなんてわかるし、チーム内の語りかたでもわかると思う。
だからいつも、チャットでもミーティングでもできるだけラフな語り口しかしないようになった。むしろそれしかできなくなってきてマズい今日この頃なのだけれど。
とかいうと、ね
・・・とかいうと、先日自分がした映画『急に具合が悪くなる』批判、および冒頭の批判と逆のことを言っていることになる。仕事とか未来とかに”うまく使える語りかた”のことを語っとるやんけ、って。

いやはや、人間の言葉はそれ自体がひどく男性的なもので参るな、とよく思う。まあこの文脈だとぼくがまったくだめなのを全部言葉のせいにしているだけだろ、って感じなんですが。でもさあ。やれやれ、って感じではないですか。『夏帆』は女性を語るときの語りかたについてもっと指摘したほうがいいと思うけどなあ。
まあもちろんぼくには男性的かどうかなんてラベルもよく知らないし、ただ明日、いや今日も何をやるかちゃんとは決まってなくって、まあなんとかなるかーって感じで進んだり止まったりしていたい。別にそれは何も決めないとか責任を引き受けないってことではもちろんなく。自分が決めたわけではないことや自分では決められないことをそのまま受容するのでもなく抵抗するのでもなく、受け入れていくようなこと。流されるのでもなく流れを作るのでもなく、流れに乗るようなこと。
ちゃんと向き合ってちゃんと決めたりしたって本当に何か変わったりするの、本当に? アウフヘーベンなんてそんな簡単に起きたりしないって。“人類の歴史の振り返り”としてはそう見えたとしてもさあ。もっと『天幕のジャードゥーガル』とかを読んで/観て、ままならぬ人生のことや遊牧民の生活とかを考えながら、しかしこれといってさしたるコミットをすることもなく、でもちょっとした日々の判断に何か影響を与えたりして、総体としてはだらだらと漫然に生きていって。
どう考えても『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』の著者は、『枕草子』ではきらびやかな宮中を生きてイキってばかりいる清少納言が、中宮定子が亡くなったのち宮中から追い出され、田舎で不遇な人生を送ったのではないか、と言われていることにも強く惹かれている。人生はずっと煌びやかではなく、しかしそのことにも人は救われている。
と、ここまで書いて気づいたが、要は『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』を読んで、ほんと1年間くらい「なんか本書きます」とかいって研究生活という名の旅行をしたいって思った・・・って文章だろうこれたぶん。したい。フィンランドっていいなあ。